いつまでも生きがいとか言ってんじゃねぇよ (^^)/

1.15.2018

不適応という名の適応

誰も読まない(だろう)ブログを書き続ける意味、というか精神状態は、いかなるものでしょうか?
私は、10代のときから、毎日欠かさず、日記をつけてきましたが、これは、当然ながら、誰かに読ませることを前提に書いていないので、遠慮なく毒を吐きまくっています。(古典的な表現では「毒突く」といいます)
でも、このブログでは、もしかしたら、誰かが読むかもしれないので、毒を吐いても、抑制的で、表現は許容の範囲内です。(たぶん)

ちなみに、私は、自分では「社会的不適応」の性格だと思っています。
それなのに、こうして定年まで働くことができたのには、いくつかの理由がありますが、それらについては、いまは横に置いて、「社会的不適応」だからといって、誰もが、社会からドロップアウトしているわけでも、見た目そのように過ごしているわけでもありません。
適応できないからといって、適応せずに生きているわけではなく、むしろ、適応できないなりにカタチを変えて「適応」しているわけです。(そうしないと生きていられません)

私は、人と会うことがとても苦手なので、来たる4月以降、完全無職となり、誰にも会わずに済むと想像するだけで、本当に気持が安らぎます。
もっとも、私は、独りで暮らしているわけではなくて、妻と一緒ですし、離れてはいるものの、子供たちもいます。
まれに、外部の人と食事したりすることもあります。
しかし、それでも、不適応であることに変わりません。

そこで、冒頭に戻りますが、あれやこれや「書く」ことは、私の適応の仕方なのだろうと自分では解釈しています。
街へ出て、スターバックスなどで、こうして書いているのも(家でも書きますが)社会に適応している(しようとしている)カタチなのだと、自分で言うのも、まことに僭越というか、厚顔、あるいは、ナルシスティックのそしりを免れない所業ではありますが、思っています。
だから、人に読まれなくても、実際のところ、あまり関係がありません。
それでも、万一、誰かに読まれるかもしれないので、バランスを考えて表現しようとすることに、社会との適応を試みていると言えば言えるのではないかと、まあ、まるくおさめましょう。