いつまでも生きがいとか言ってんじゃねぇよ (^^)/

3.26.2012

さぬきうどん駅って・・・

JR四国は、高松駅の愛称を「さぬきうどん駅」にするそうです。
香川県の「うどん県」キャンペーンの一環らしい。
愛称で止めてよかった。
いや、どうせなら、ちゃんと名称変更すればよかった。
と、賛否?は、あろうかと思いますが、ほかにやることないのでしょうか。
いや、あれこれやるうちのひとつがコレなのでしょう。
なかには「さぬきうどん駅」へ行ってみたいという、奇特な人がいるかもしれません。
わたしは、結構ですけどね。
うどんより、そばの方が好きですし。
ものすごく、どうでもいい話でした。

3.21.2012

メリル・ストリープのサッチャー

こないだメリル・ストリープの「マーガレット・サッチャー」を見ました。
とてもおもしろかったです。
サッチャーの政治姿勢や政策が、きちんと描かれていない、単なる伝記映画になっている。という批評もありましたが、伝記映画であることの、どこが不満なのか、ふしぎです。
政治家としての側面は、それなりに(シーンによっては過剰に)描かれていました。
これは、「鉄の女(The Iron Lady)」と呼ばれた政治家が、老いて認知症を患い、現実と妄想の狭間で、過去を振り返るという、脚本家冥利に尽きる作品です。
その脚本に命を吹き込んだのは、メリル・ストリープの名演です。
英国式の発音。そして、老けメイクもスゴイ。

3.17.2012

戦後思想界のカリスマ

吉本隆明が亡くなりました。
60年安保から学生運動が崩壊するまでの、まだ左翼思想が意味を持っていた時代のカリスマでした。
吉本隆明は「よしもと・りゅうめい」であって、「たかあき」と聞くと、誰のことかと思います。
わたしは、いわば「遅れてきた青年」でしたが、時流のバイブルだった「共同幻想論」や「言語にとって美とはなにか」を読みました。(さっぱり理解できませんでしたが)
晩年は、つまらない(というか、どうでもいいような)評論や口述筆記のエッセイが増え、思想家というより、作家よしもとばななの父親として知られるにすぎなくなりました。
冥福を祈りたいと思います。

3.15.2012

惜しむらくは

ドコモの「しゃべってコンシェル」を動画で聞いてみると、声の質やイントネーションが、siri より、はるかに上でした。
siri の「宇宙人」言葉より、ずっと人間に近い。
さすがに、人情の機微を理解している。というよりも、単に、技術的な精度なのでしょう。(よく知らないけれど)
これなら、十分使えるかもしれません。
惜しむらくは、Android なのでした。

3.10.2012

ワレワレハ ウチュウジンダ

siri が日本語対応になりました。
新しい OS にアップデートする必要がありますが、ただし、iPhone4S だけです。
残念ながら、iPhone4 以前では、アップデートしても、siri は使えません。
ただ、オフィシャルサイトの動画で確認したところ、siri の声は、古いSF映画の「宇宙人」そのもので、声の質にも、イントネーションにも、ちょっとがっかりしました。
これじゃ、いままでの読み上げソフトと変わりません。
なんとかならなかったのかと思います。(そのうち、改善されるでしょうが)

3.08.2012

本についても

前回、雑誌の電子版のことを書きましたが、本についても、同じです。
電子書籍を頻繁に読んでいるわけではないので、結論めいた感想を言うのも、気が引けますが、家で手にするとしたら、やはり、紙の本に限ります。
将来、紙の本が駆逐されてしまえば(あるいは、電子版しか手に入らないとなれば)選択の余地はないので、別に、電子書籍でも構いませんが、いまのところ、本を読むなら(特に、家では)紙にします。
旅行中とか、出先となれば、電子書籍のメリットが生きると思いますので、大いに活用したいと思います。

iPad では、もっぱら、JRで移動するときに、映画やドラマを見ています。
日本の作品でも、字幕のあるものを選びます。
テレビでDVDを見るときも、たいてい字幕ONで見ます。
というのも、俳優の滑舌がよくない場合などは、論外ですが、セリフの音量に較べて、音楽や効果音が大きすぎるので、疲れてしまうからです。
たまに、実際のセリフと字幕が異なる場合(字幕が簡略化されていたりする)がありますが、これは、脳が混乱する感じになるのでいけません。

3.06.2012

雑誌は紙の方がいいかも

雑誌の電子版を iPad で読むことがありますが、正直言って、どうかなと、思い始めています。
どうかな、というのは、よい意味ではありません。

iPad の画面サイズは、雑誌の誌面より狭いので、全面表示のときは、文字が小さすぎて読みづらい。(読めないわけではないけれど)
だから、読みたい部分を拡大して、スクロールしながら読むことになります。
慣れれば、そうでもないのかもしれませんが、結構、わずらわしい感じです。
あと、表や図形の場合、文字部分が、一層小さいので、それを拡大し、スクロールしながら読まなければならないとなると、余計イライラします。

紙媒体なら、広げて全体を見渡しつつ、文字を連続して追うことが、自然にできるわけです。
電子媒体による取扱いの簡便さというか、手軽さは、是とするわけですが(おまけに、ゴミにならないし)、一方で、紙媒体ならば、折ったり、丸めたり、たたんだりしながら(つまり、読む姿勢に応じて)柔軟に対応してくれるよさがあります。
iPad では、そうはいきません。
片手に持ち続けるのも、難儀です。

恥の文化

また、原発事故の話です。
書きたくもないけれど、書かずにはいられません。

3月3日、首相は、外国プレスとの会見で、原発が炉心溶融に至った刑事責任について問われ、以下のごとく答えたそうです。

(一義的な責任は、運営事業者である東京電力にあるとしながらも)
「政府も、事業者も、あるいは学問の世界においても、安全神話に浸りすぎていたということは、総括として言えるだろうと思う。誰の責任というよりも、誰もがその痛みは、責任は、共有しなければいけないんだろうと思う」

お前は、コメンテーターか。
許されないミス、不作為、ウソ、隠蔽など、これほどの惨事を招いた原因が、歴然としてありながら、なお、責任を逃れようとする者たちがいる。
でも、この事故は、安全神話を信じたみんなの責任だから、特定の誰が悪いとは言えない、と?
違うだろ。
みんなで甘い汁を吸ったのだから、同罪だ。
暗に、そう言いたいだけだろ。

外国のマスコミには、いったいどんなふうに映るだろう。
この国のトップであることが、自分で、恥ずかしくないのか。
いや、本当にトップなら、恥ずかしくもなるかもしれないが、あやつり人形なら、恥を覚えるわけもないか。
恥の文化というが、どこに恥があるんだ。
きっと、村の中にだけあるんだろう。
村の外では、恥でも何でもない。むしろ、仲間を守ったという勲章のようなものかもしれない。

3月5日、東電経営陣(現旧27人)に対し、国内の民事訴訟としては最高額の約5兆5千億円の賠償を求める、株主代表訴訟が、東京地裁に起こされました。

3.05.2012

官僚主権国家

原子力安全・保安院は、原発事故後、3月18日の時点で、1~3号機について「炉心溶融」していると判断していたという。
公式に認めたのは、約2か月後でした。
公表しなかった言い訳は、どうでも勝手にするがいいでしょう。
公表するかしないか、公表するなら、いつ、どの程度公表するかなどの判断基準は、国民の生命や財産を守ることにあるのではありません。
彼らの保身と組織防衛と将来の天下り先確保のためにあります。
なぜなら、彼らの安寧が、すなわち、国の安寧であるとされているからです。

アメリカの公開資料によると、1~3号機の炉心溶融もさることながら、4号機が、一番危機的だったという。
使用済燃料プールは、格納容器の外にありました。
建屋が崩落し、プールの水が抜けてしまうと、核燃料が、大気中にむき出しになります。
一帯が、高濃度の放射性物質で汚染され、近付くことができなくなれば、他の1~3号機からも撤退しなければなりません。
そうすればどうなるか。

最悪のシナリオでは、首都圏避難もあり得たという。
米軍は、50マイル(80キロ)圏まで後退し、在日アメリカ人にも、避難勧告が出されました。
SPEEDI のデータは、官邸の政府首脳にも、福島県民にも、知らされませんでしたが、おどろくべきことに、米軍には、提供されていたのです。
福島県民は、この時点で、国から見捨てられたのです。

放射性被曝の場合、健康被害を受けたと、あきらかになるのは、何年も、何十年も、先のことでしょう。
「そのとき」には、因果関係も不明確ですし、裁判を起こしても、生きているうちに、判決を聞くことはできないかもしれません。
彼ら原発推進官庁の役人たちは、そのことをよくわかっています。
彼らは、追及されることもなければ、良心の呵責を感じることもありません。
なぜなら、「そのとき」には、すでに、あまりに歳月がたち過ぎているからです。

国の発表は、信じられない。
ということを、あらためて肝に銘じましょう。
「安全だ」と言われれば「かなり危険かもしれない」と受け止めるべきですし、「ただちに健康に影響はない」と言われれば「とにかく逃げた方がいい」と考えるべきです。
長い年月を「そのとき」に怯えて暮らすのは、自分なのですから。
この国に「国民主権」はなく、「官僚主権」があるだけです。

3.01.2012

甘受すべき事故だというのか

原発から30キロ圏内の道府県と市町村の首長へのアンケート(毎日新聞が実施)で「条件を満たせば再稼働に賛成」と考えている首長が、57%(78自治体)だったという。

条件というのは、安全確保や福島原発事故の原因究明などですが、再稼働の賛成理由(複数回答)には、「エネルギーの安定供給」(77%)や「ストレステストで安全性が担保される」(53%)などが大勢を占めました。
この条件と再稼働賛成は、裏表の関係で、同じことを言っているにすぎません。
条件をつけて、いかにも慎重なふりをしていますが、どんなかたちであれ、それらの条件が満たされれば、再稼働OKなのです。
要するに、なんとかして原発を動かしたいということです。
「交付金などの収入確保」という正直な答は、わずか6%でした。

一方、反対は17%で、その理由(複数回答)では、「福島原発事故の原因究明がされていない」(74%)や「原発の危険性が明らかになった」(65%)や「ストレステストでは安全性が担保できない」(57%)などです。
これも、実は、条件と裏表の関係で、条件が満たされれば、再稼働も仕方ないという意味です。
つまり、安全かどうかより生活の維持。
将来のリスクより現在のメシのタネ。

たとえば、クルマの運転は、経済活動に欠かせないけれど、事故のリスクもあります。
しかし、そうしたリスクを上回る経済効果がもたらされるので、結果的に、どんなに交通事故が多くても、社会は甘受すべきだという理屈とこれは同じです。
交通事故が起こらないように、さまざまな手立てを講じるものの、それらは、あくまで経済効果を損なわない程度にすぎません。
という比喩から言えば、これからも、原発事故は起こるし、社会は、それを甘受すべきだということになります。