いつまでも生きがいとか言ってんじゃねぇよ (^^)/

1.31.2018

冗談でもないらしい

スマホネイティブという言葉があります。
スマホばかり手にしていて、パソコンを使えない世代ということですが、冗談だろうと思ったら、どうも、そうでもないらしいです。
ワードやエクセルを使えないというから、それは、単に、能力が低いだけだろうと思ったら、キイボードのローマ字入力が、苦手なのらしいです。

実際、何であれ、ネットにかかわることは、ほとんどスマホで足りてしまいますし、長い文章を打つ作業でもなければ、キイボードに触る必要がありません。
学校や企業の現場では、パソコンの再教育を始めていると、どこやらのニュースでは、紹介されていましたが、はじめは、バカを基準に物事を構築すると、全体がバカ仕様になってしまうぞと思いましたが、いまや、そんなことを言ってもはじまらない世の中なのでしょう。

1.29.2018

私たちは産業ロボットだった

仕事と家庭は人生の両輪だと。
確かに、どちらか一方が順調でも、片方がうまくいってなかったら、愉しい人生とは言えません。
しかし、それは、働く世代の、結婚してから、退職するまでの、一部の期間に過ぎません。
前と後の人生は、考慮の埒外にあります。

あきらかに、難癖をつけているわけですが、やがて、完全な年金受給者になり、前期高齢者である立場にある者としては、退職後の過ごし方みたいなハウツー本を目にするたびに、おおげさに言えば、この国の産業政策の、ある意味で強固な精神主義に違和感を感じます。
確かに、働くことは生きること。
しかし、当たり前ですが、生きることは働くことではありません。

意地悪な見方をすれば、人は、結婚し、安定した家庭を基盤に、一所懸命働き、子供を生み育て、次世代の労働力を供給し、退職したら、いつまでも年金を喰まずに、ほどほどのところで死んでくれるのが、社会(産業界)にとってベストだということでしょう。
いや、意地悪でも何でもありません。
そのとおりというか、それしかないでしょう。

老人の見識や知恵なとどいうものが、ただのデータに還元される時代には、迅速性と合理性、そしてなにより、効率性が求められます。
いつか来た道、やがて行く道。
などとノンキなことを言っている場合ではありません。
私たちは、産業ロボットではないのです。

1.21.2018

自然に洗われる

ウィリアム・K・クルーガーのオコナー保安官シリーズを読み返しています。
ハードボイルドミステリという分類になりますが、物語の舞台となるミネソタの田舎町の美しく厳しい自然の描写に、ふしぎと癒やされる感じがします。

物語のバックグラウンドには、もうひとつ、先住民の存在があります。
主人公のオコナーは、母親から先住民の血を受け継いでいますが、過去からのさまざまな確執を経て、先住民と共生する社会で、彼は、しばしば微妙な立場になります。

このシリーズは、全部で14作ありますが、その半分までしか翻訳されていません。
もったいないことです。
最近(といっても、3年前ですが)シリーズ外で「ありふれた祈り」が刊行されました。
ぜひ、ほかの作品も、訳出してほしいものです。

1.20.2018

中身はともかく

オリバー・ストーン「プーチン・インタビュー」を読んでいます。
アメリカでは、ロシアのプロパガンダだとか、プーチンにへつらっているとか、さんざんに酷評されたようですが、私は、そうは思いませんでした。
そのうえで(誰かの書評にもありましたが)確かに「逆の視点」を提供するものです。
ロシア側から見たアメリカや西側諸国の姿を教えてくれます。

しかし、この邦訳タイトル「オリバー・ストーン オン プーチン」は、センスがありません。
オリバー・ストーンは「もうひとつのアメリカ史」で、アメリカという国の独善的、偽善的な歴史を暴いていますが、これでは、まるで、プーチンをダシにして、彼の「反アメリカ的」な主張を展開している本と思わされます。
ついでに言えば、装幀にも、センスが感じられません。

1.19.2018

私たちはつながっていたいのか?

とあるカフェで、Wi-Fiがつながらずイライラしてしまいました
ところで、この「カフェ」という呼び名、なんとかならないでしょうか?
若い人たち(つまりガキの皆様)には、それでかまわないでしょうが、高齢世代にとっては(いや、世代を代表するつもりはありませんが)言葉の座りがいまひとつです。
「喫茶店」と言うのも、いまどきナンですし。

Wi-Fiの話でした。
私たちは、いまやインターネットに紐付けされていて、プライベートはもちろんのこと、仕事であれ、何であれ、活動のほとんどをネット環境に依存しています。
それは、空気のようにあるわけで、いいことか悪いことか、判断以前の問題です。
もし、いますぐパソコンとスマホとタブレットを捨て、代わりに1冊の文庫本を携え、北へ向かう夜行列車に乗ったとしたら(いや、これはただの比喩ですけれど)心安らかな時間を過ごせるかもしれません。

1.15.2018

不適応という名の適応

誰も読まない(だろう)ブログを書き続ける意味、というか精神状態は、いかなるものでしょうか?
私は、10代のときから、毎日欠かさず、日記をつけてきましたが、これは、当然ながら、誰かに読ませることを前提に書いていないので、遠慮なく毒を吐きまくっています。(古典的な表現では「毒突く」といいます)
でも、このブログでは、もしかしたら、誰かが読むかもしれないので、毒を吐いても、抑制的で、表現は許容の範囲内です。(たぶん)

ちなみに、私は、自分では「社会的不適応」の性格だと思っています。
それなのに、こうして定年まで働くことができたのには、いくつかの理由がありますが、それらについては、いまは横に置いて、「社会的不適応」だからといって、誰もが、社会からドロップアウトしているわけでも、見た目そのように過ごしているわけでもありません。
適応できないからといって、適応せずに生きているわけではなく、むしろ、適応できないなりにカタチを変えて「適応」しているわけです。(そうしないと生きていられません)

私は、人と会うことがとても苦手なので、来たる4月以降、完全無職となり、誰にも会わずに済むと想像するだけで、本当に気持が安らぎます。
もっとも、私は、独りで暮らしているわけではなくて、妻と一緒ですし、離れてはいるものの、子供たちもいます。
まれに、外部の人と食事したりすることもあります。
しかし、それでも、不適応であることに変わりません。

そこで、冒頭に戻りますが、あれやこれや「書く」ことは、私の適応の仕方なのだろうと自分では解釈しています。
街へ出て、スターバックスなどで、こうして書いているのも(家でも書きますが)社会に適応している(しようとしている)カタチなのだと、自分で言うのも、まことに僭越というか、厚顔、あるいは、ナルシスティックのそしりを免れない所業ではありますが、思っています。
だから、人に読まれなくても、実際のところ、あまり関係がありません。
それでも、万一、誰かに読まれるかもしれないので、バランスを考えて表現しようとすることに、社会との適応を試みていると言えば言えるのではないかと、まあ、まるくおさめましょう。


1.13.2018

字幕は不評だったようですが

ジジイの生活というものは、いたってシンプルです。
毎日が同じ、淡々と流れるにまかせて、みずから変化を求めることはありません。
新しいことに挑戦したり、冒険したり、ハメを外したりということはないのです。

もちろん、そうでない人もいます。
現代社会では、総じてそういう人を好意的に評価しますが、昔は、それを「年寄りの冷や水」と称していました。
つまり、本人だけはよい気持でいるけれど、周囲は迷惑ということです。
ジジイは、身の程をわきまえて、おとなしくしていなさいということです。
たとえば、クルマの運転のように、家族が、もうやめてほしいと願っているにもかかわらず、耳をかさなくなったら、それは「年寄りの冷や水」どころか、社会的害悪になります。

ジジイは、おおむね頑固で、人の言うことを聞かず、みずからのやり方に固執し、自分は生産性ゼロにもかかわらず、若い世代は全部バカで軽薄で世間知らずなのだから、せめてしっかり働くべきだなどと思っています。
と、ここまで書くと、ジジイなどさっさと死ねばいいと考えているようにとられますが、そんなことを口にした日には、人格を疑われます。

関係ありませんが、映画「ブレードランナー」の終盤で、レプリカントのロイ(ルドガー・ハウアー)が、デッカード(ハリソン・フォード)をビルの屋上に追い詰め、発するセリフ「(It's) Time to die」が、えらくカッコよかったと思い出しました。
で、今日の書き込みに、特にオチはありません。


1.11.2018

爺的生活

昨年、満65歳になりました。
今年3月で再雇用期間も終了し、晴れて完全無職です。
年金受給者です。
といっても、妻はもう少し働くので、経済的にはいくらか気楽なところもあります。

ウェブサイトを開いたのは、もう20年も昔のことで、それからプロバイダを変わったり、リニューアルしたり、しなかったり、放置したりで、わがサイトは、ネットの大海の底に沈んでいるはずですが、つぶれたプロバイダもあったので、データが消失しているかもしれません。
新しもの好きというか、ミーハーなので、デジタル機器にいろいろ手を出したり、ときどきの流行りのSNSに参加したり、さぞかし世界が広がったかと思いきや、偏屈な性格が災いし、友人は増えるどころか、かえって減りました。
要するに、私は「嫌なヤツ」だったらしく、こうして、「です・ます」調で書いているのも、その辺の後遺症です。

で、タイトルを「爺的生活」と付け足しました。
これからなるべく更新します。